先日、Twitter社日本法人が入るオフィスビル前で行われたデモをきっかけに、表現の自由と、それがどこまで許されるべきか、という内容の議論が盛り上がっています。
この話について、自分が考えたことを日記としてまとめます。
デモについて、自分の立場
自分は、「このデモ」そのものには、賛同することができないという立場を取ります。
ネット上で散々指摘されているように、ヘイトとは言えないようなツイートまで踏みつける行為は、それを発信した方へヘイトを向けていることと何ら変わり無いと思うからです。
「ヘイトは表現として規制されるべきだ」という意見について、自分の立場
ここからはデモの話を離れ、その後巻き起こったヘイトと表現規制についての話です。
自分はネット上で、「ヘイトは表現とは言えない、だから規制されるべきだ」という意見を目にしました。また、表現の自由を振りかざしてヘイトを行う人間を擁護するのはおかしい、という意見も目にしました。
これについて、自分は全く同意できません。
というより、「他者を律しようとするようなヘイト」への対抗手段としての表現規制と言うのは、ズレた対応だと感じます。
表現と表現の範囲を超えるもの
自分の結論から言うと、ネット上にただ置いてあるだけのヘイトは、ただの自己満足に過ぎず、自己満足であるが故に表現であり、表現であるが故に自由だ、と考えています。
自分は、表現とそれ以外の範囲との境界線を、「能動的に他者を律しようとしているか」、という部分に引いています。
「自分はこう思う!」という主張を自己満足で行うことは、誰にも制限されるべきではないと、自分は思います。
それはまだ表現の範囲に留まっていると考えています。
規制されるべきものは何か
自分は、「ヘイトスピーチは表現とは言えない、だから規制されるべきだ」という意見が生まれた裏には、「表現の範囲を超え、他者を律しようとする人間は、表現としてのヘイトを行っている」という認識があるのではないかと考えています。
この認識そのものは殆ど外れていないように思います。しかし、この場合規制されるべきなのは表現の範囲を超えた行いであって、表現ではないはずです。
そもそも、法のような根拠も無しに他者を律しようとするのはただの迷惑行為でしょう。
これはどんな人間にも関係無く言えることです。
そんな迷惑行為は規制されて当たり前です。それが規制されないのは、表現の自由とは何ら関係の無い話です。
表現としてのヘイトに立ち向かうには?
表現の範囲としてのヘイトまでやめさせようというのであれば、その主張もまた、表現の範囲から出るべきではないと、自分は思います。
権利は万人に認められたものであり、それを犯すことはどんな崇高な理由を掲げようと正当化されることはないでしょう。
終わりに
今回の件で強く感じたことは、「他者を律しようと行動する癖に、事象、原因、根拠の3つを正しく揃えることを考える人間は少ない」ということです。
これらを揃えた意見は、それが正しいのか間違っているのか他人が検証できる、だからこそ他者を律する根拠となりうるのだと、今回の件で自分は考えました。