まだ読了してはいませんが、 「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」を読んでいる中で日頃から感じていた日本人の権利と義務への観方に関する違和感が言葉になったのでまとめます。
日本人にとっての権利
自分は日本人の大半に「権利は場の空気感の中で認められる」という理解が有るように感じています。この理解では、「その行為が許されるかは論理ではなく空気感で決められる」、「権利は自分のものではなく他者が決める」、つまり『権利は自分のものではない』と解釈されるのが自然です。
大義や権利を考えることが馬鹿にされる
自分は日常の中で大義や権利を考える人間が馬鹿にされたり、それらについて話す人間が自信なさげで馬鹿にされることを恐れるような振る舞いをするような場面を多く見かけます。自分もそう扱われ、そのように振る舞いがちです。
また、そのような話を聞く側も「真面目だね」「すごいね」「そう思うよ」と、他人事のような反応しか返せないことが殆どです。
「自分のものではなく、自分ではどうしようもなく、自分がそのようなことをする必要が無いものに対して考えることは馬鹿らしい」。大義や権利を考えることに対するこのような反応は、権利が自分のものではないのだとするとこう解釈できると思います。
権利を主張されることが理解できない
権利を自分や他人のものではないと理解しているなら、権利を主張することに対して反発が起きることについても理解できます。
ネット上でよく叩かれている「空気感の中で認められていない権利を主張する人間はどれだけ馬鹿にしても良いしその権利を認める必要もない。むしろ存在しない権利を主張する人間は自分たちにとって害を与える存在で自分は被害者だ」と主張するようなムーブが正にそれです。実際に存在すべきか、存在しているかはともかく「有るものを無いと言われても困るし、無いものを有ると言われても困る」ということでしょう。
このようなムーブはいじめる側の主張として、権利を保証する責任を果たさない側の主張として、日本では全世代に普遍的に見られると思います。
権利が理解できないということ
自分の権利を理解し尊重することと、他人の権利を理解し尊重することは表裏一体です。権利をその場の空気感にしか見出さず、それ以外のことを権利として認めないということは、権利を理解できていないことと同じでしょう。
権利を理解できないからこそ、「当然のこととして」「根拠は一切なく」他人の権利を踏みにじったり、自分の権利が踏みにじられることを許してしまうのだと自分は思います。
多様性は本当に生まれているのか?
最近では多様性多様性ダイバーシティと、他者の当然の権利を保証することによって多様な人間を活用する方向に社会が動き始めているようにも見えます。一方で、自分は社会の権利に対する認識は全く変わっていないと思います。
「多様性を認めるような空気感が有るから認める」というだけでは「理解している、受け入れていると彼らは主張しているが、自分は全く受け入れられておらず、同じように排除されているものが多数ある」という事例ばかりが多発するでしょう。
フェミニズムは正にそのような過程を辿ったいい例ではないかと自分は感じています。「空気感だけで権利を決め、気に食わないものは全て排除しても良い」。本来持つべき大義などどこにもありません。
大義を見出すことができない日本人
自分は日本人の権利観とは「個々人が直面する空気感」なのだと理解しています。そこにあるのは論理性ではなく経験が生む蓋然性で、何か大義に基づく一貫した姿勢ではなく「こうしておくのが良さそうだ」という無意識なのだと感じています。
また権利は責任を伴うものですが、空気感に責任を負うことは無く、その責任を実感する経験をすることは無いのでしょう。空気感は責任を規定する根拠を持たないからです。
そこには権利と責任を規定する大義がありません。大義が無い以上それを根拠とすることもできません。存在しないものを見出すこともできないでしょう。あるいは空気感を重視するが故に正しいもの・ことを定義することに忌避感を抱き、それ故に何かを正しいとする前提を置くことにも反発を起こすのかもしれません。
終わりに
自分は権利を「大義によって規定され、論理によって保証・行使されるもの」だと考えていましたが、他人にとってはそうではなかったようです。相手も同じように感じているだろうに何故こんな反応をされるのかという違和感を持ち続けていましたが、「権利は空気感によって規定される」と考えると非常によく今までの経験を説明できました。今は、恐らくこういうことなのだと思っています。
とりとめがありませんが、自分の主張したいことは以上です。